修行をつみ、仏教の研究を続けていた空海は「大日経」(だいにちきょう)という密教のお経に出会いました。しかし、とてもむずかしくて、わからなかったので、密教の進んだ国、唐(とう:中国)へ行って学びたいとねがうようになりました。
そして三十才をすぎたころ(804年)、遣唐使(けんとうし)のひとりとして選ばれ、20年間勉強するやくそくで唐へ行くことになりました。命がけのつらい船旅のすえ、一ヶ月以上もかかって唐へたどりつくことができましたが、遣唐使であることを書いた日本の国書(こくしょ)が無かったため信用されず、なかなか上陸をゆるしてもらえませんでした。そこで空海は唐の役人に自分たちが遣唐使であることを信じてくれるよう手紙を書きました。この手紙が大変すばらしい文章と字だったため信用され、一行は上陸をゆるされました。
唐の都、長安(ちょうあん)へ着いた空海は、密教を学ぶため、梵語(ぼんご)(古代インドのことば)やインド仏教を勉強しました。そしてそのころの密教のいちばん高い地位にあった、青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)の恵果和尚(けいかかしょう)の弟子になりました。空海は恵果和尚から密教の教えを伝えるときに行う灌頂(かんじょう)という儀式を受けました。そして、恵果和尚より「遍照金剛」(へんじょうこんごう)の名前をさずかりました。遍照金剛とは「この世の一切をあまねく照らす最上の者」という意味です。恵果和尚は空海に、、密教の儀式につかう道具や・お経・曼陀羅(まんだら:仏様の世界を絵であらわしたもの)などをあたえ、人々の幸福のために早く日本に帰って密教を広めるよう言いのこして亡くなりました。
そこで空海は806年、遣唐使といっしょに日本に帰りました。