寺院所在の地は東海道戸塚宿東宝眺望に富める小高き丘にあり、文化十三年正月宥教法印記録等に依るに弘法大師東国御巡化の砌当山に留錫せられしにより一字を建立し東高野と称す。
元は東峰山光円寺とあり、中興は朝興法師高野山の都市満ちて来山せられ徳近郷に遍くその事績又多し。
天正四年四月二十七日当山に於いて示寂せらる古碑あり。
朝栄法印寛永年中東海道の傍現在の地に移して東峰山金剛寺宝蔵院と改む。
かくして法燈の盛衰幾度かあり寛文二年尊栄法印の代境内を平地なる柏尾川堤近く戸塚町一の区に移転す。
時に延宝四年続きて明和年中阿闍梨宥伝法印樹木深く幽谷閑寂元が境内にありし大日堂を迎え移す。
天明六年七月阿闍梨宥勝法印の代大水の為堂宇破壊後しばしば水難をこうむる。
又文化申戚十一月四日には地震に依り本堂礎より表の方三尺余り露出し庫裏物置等平状に例る時去り時来たり。
安政の頃には当所惣鎮守八幡宮の社地を所有し本堂庫裏山門及び境内には御嶽山天満宮大日堂観音堂聖徳太子堂地蔵尊堂金毘羅社等堂宇塔伽藍よく整い規模広大なものであったが偶々大正十二年九月一日の関東大震災に遭い今日に至っては昔の盛観をみることは出来ないが先師の代より漸く寺運を挽回して、現在職全隆師昭和四十七年打越地区よ寺有地を神奈川県に売却し、本堂庫裏客殿を近代建築に再建し水子地蔵尊堂観音堂修復し目下金毘羅堂再建に着手。
未だ旧観を呈するには至らずとも檀信徒各位が昔日の面影をしたい「東高野」と尊崇ありし当山の興隆を念願し現在に至る。